YASUHIRO ISHIMOTO

一目惚れした一枚の写真。そして偶然に、それも写真展最終日に本物の作品に再会するとは。どの作品も奥深い世界感。でもやっぱり真夏の公園で風に舞う新聞を切り取ったこの作品が一番好きだ。運が良かったわけじゃない。一時間も粘って撮った最高の瞬間なのだ。

フィルムの再来

いつもこうだ。フィルムカメラを使っていると言うと、「えー本当に?このデジタル時代に、昔に戻るの?しかも高くつくのに」と真っ先に言われる。ごもっともで、フィルムを使って写真を撮ることは、今日ではよりコストも時間もかかる。それなりのサイズで自宅プリントしようものなら更に面倒な作業となる。この時間のかかる工程では物足りないかのように、ネットでは「ゆっくりプラン」といったサービスもある。現像料金が半額になる代わりに、納品に半年までかかるというものだ。半年?これでは話にならない。。。
ではなぜフィルムはなくならないのか?というよりむしろ最近では、フィルムを再発売して興味を引いている「Holga」や「Lomo」、「Kodak」のように、第二の青春を謳歌しているように見える。 ここ数年、生産者はフィルム写真の効果を出すために携帯やデジタルカメラ用のクリエイティブフィルターを提案し競い合っている。そんな中コダックがあのエクタクロムを市場に送りだす準備をしている。またそれに伴い、作業の複雑さにめげず、コストを抑え、時間短縮をも実現する方法を生み出している昔を懐かしむ人たちの面白いプロジェクトも進行中だ。特に「Lab Box」と「FilmLab」というプロジェクトについて話をしたい。


一つ目はローマの若者が開発したもので、どのような場所でもこの箱があれば時間をかけずに現像することができ、暗室の必要もないというもの。もう一つは、パソコンやスマートフォンなどに写真を保存するためのものだ。
最初に話をしたラボは時間のかかる高額なサービスを提供している。市場に出回っているスキャンナーはフィルムを想定して作られてないので、おまけ的な機能が備わっているだけだ。高いクオリティーを求めるならば、フィルム専用のスキャンナーを買う必要があるだろう。だが私のようにデジタルカメラも使う者にとっては高額すぎるし、こういう買い物は妥当ではないと思う。ならばスライドやフィルムを一瞬にしてスキャンすることができるスマートフォン専用の素晴らしいアプリがある。ライトボックスのような光源とスマホが一台あればOK。

2017年はフィルム再来の年となるだろうか?時が経てば分かるだろう。
 

記:アレッサンドロ・メリーニ

今年の写真展のテーマ

もうすぐお花見のシーズンになろうとしている今、今年の写真展のテーマを再確認。

「街の記憶 ・ 時の流れ」

2020年の東京オリンピック開催に伴い、ますます様変わりしていく街東京。私たちの住む横浜も懐かしい街並みが再開発によってその姿をどんどん変えていく。
郷愁を誘う建物が更地になり、無機質な巨大構造物が建つ一方で、古い街並みに新しい風が吹きこんで人で賑わう場所となり生き残っていく。
そしてそこで暮らす私たち人間の暮らしにも大きな変化が起こりつつある時代。
こんな時だからこそ自分の心の赴くままに歩き、「街の記憶」「時の流れ」を留めたい。
さあ、秋の写真展ではどんな街の風景に出会えるだろう?

Picture Thisについて

Picture This 2016-2017

Picture This 2016-2017


昨年の8月に始まったユースフォトプロジェクトが、先月“象の鼻テラス”で開催された写真展をもって無事
に終了した。

ボランティアの一人としてはすべて手探りだったが、若者たちの視点や感性に触れることができ、とても充
実した時間を共有することができた。カメラというツールを通して表現すること、作品に仕上げていくまでの作業、大勢の方に写真を観てもらえる喜び。参加した彼らの心情を思い、こちらもまた感動。

展示期間中、象の鼻テラスには6000人近い人が訪れたそうだ。また、各主要新聞にも大きく記事を取り
上げてもらった。
広瀬美穂

世の中って狭い!

昨年のクリスマス休暇はイタリアで過ごすことになった。
私の母はローマの南、サンパオロ大聖堂のあるエリアに住んでいる。
イタリアへ出発する前、母の上階に住む古い友人であるトニーノからメールが届いた。この友人は年金生活を送ってしばらくたつのだが、たまにバイトで映画やCMのエキストラをやって楽しんでいる。彼からのメールには「チャオ、アレ。フィラデルフィア(チーズ)の日本のCMに出たんだけど、思い出に何か僕に持ってきてくれないかな。」
そういうわけで出発前に彼が写っているものを探し始めた。テレビは難しいので雑誌を探したのだが見つからず。
唯一見つけたのはメーカーのサイトに載っていたCMビデオで、それを彼に送った。
彼にローマで会った時、何も持っていくことができなかったことを謝った。彼も残念そうに見えた。
日本へ戻り、翌日から仕事に復帰。ほぼ1日がかりの旅の後だけにくたくたに疲れた。夜、会社を出て上を見上げる。

トニーノがそこにいるじゃないか。正面にあるビルの巨大な看板に写る彼の満面の笑顔が僕を見降ろしていた。びっくりだ。人々が私の横を通り過ぎる中、立ち止まった。それにしてもなんて世の中狭いんだ、と私は思った。

記:アレッサンドロ・メリーニ

よいお年を!

2016年はとても忙しい1年だった。フルタイムで仕事をしているので写真を撮りに行く時間が本当にわずかしかなかった。
でも写真に費やす時間を少しでも見つけることは大事だ。例え沢山の用事をこなして慌ただしい毎日を送っていたとしても。

Minolta A5 1000

Minolta A5 1000

Minolta A5 1000

Minolta A5 1000

最近、私は昔のフォルムカメラを使い始めた。デジタルカメラとは全く違う体験だ。俊敏さを求めることは無理。ちょっと立ち止まり頭を使わなければならない。
36枚しか撮ることができないので1枚たりとも無駄にはしたくない。露出計算に焦点を合わせるなどすべてマニュアルで操作しなければならず、いつもスムーズにはいかない。
その出来栄えは?大体はがっかりすることが多いのだが、60年代製造の古いミノルタを使ったことを考えれば納得出来るし、まだ撮影可能だというだけでも奇跡だろう。

Minolta A5 1000

Minolta A5 1000

2016年、常盤先生は栄写友を勇退される。
個人的には数回しかお会いする機会がなかったが、先生との例会では様々なことを学ぶ事が出来た。長い間栄写友をご指導下さり本当にありがとうございました。

最後に、今年の写真展は特に大好評で大勢の方にご来場いただいた。
観に来てくださった全ての方に感謝いたします。
これが今年最後のブログとなります。皆様におかれましては、どうそ佳い年末年始をお過ごしください。
そしてまた来年お会いしましょう!

記:アレッサンドロ・メリーニ

今日写真家であるということ - デヴィッド・ハーンの思いと助言

デヴィッド・ハーンは感じの良い82歳の紳士だ。ちょっとした偶然で写真家になった。彼のお父さんは息子には軍人としてキャリアを磨いて欲しかったが、その環境は彼にとってはとても厳しいものだった。当時彼は軍人仲間の写真クラブに入ったのだが、特別写真に興味があったわけではなく、兵舎を出入りできる自由がより多くあったからだった。そしてある日、彼はある一枚の写真に惹きつけられた。当時他でもよく見かけた戦争写真のようだった。しかしあの一枚は他の写真とは違っていた。ロシア兵が土産屋の前に立ち止まり、誰か、彼女かもしかするとお母さんへのプレゼントを探している。
厳しい環境にあってもカメラマンは日常に見られる感情を切り取り、それがデヴィッドの心を惹きつけた。その瞬間から彼は真剣に写真家としての道を歩み始め、マグナム・フォトのメンバーにもなった。最近、彼の友人が行った長いインタビュー形式の本を再読した。そこから、写真を始めたい人や上達するための彼の考えやアドバイスをいくつか抜粋してみようと思う。その多くはフィルム写真についてのアドバイスだが、デジタル写真においても参考になるだろう。

上手い人から学べ

もし誰かから学ぶ必要があるなら、偉大な写真家から学ぶほうがよい。

好奇心旺盛であれ

写真家は写真に対してだけでなく、何にでも興味を持つ必要がある。長い時間をかけて、この興味の対象を注意深く調べ、読み、研究し、何度も間違えることが大事だ。

被写体をよく選ぶこと

若い写真家が迷う理由の一つに、講師、クラス、ワークショップや本が、写真はどう撮られるべきか、どんな技術を使うのか、芸術的観点から美しいのかどうかといったものに重きを置き過ぎているということがある。しかし、写真家はまず被写体を選ぶことが大事だ。写真家の最初の決定は何を撮るかということ。自分の持つ興味と被写体へ夢中になっていることは写真から伝わってくる。ならば、写真と関係がなくても表現のために興味のある被写体をメモ帳に書き並べてみよう。選んだ対象は自分を夢中にさせ、興味をそそり、イメージとして表現可能であり、時間と意欲がある度にそこへ戻ることができるものだ。お母さんが自分の子供を写真に撮るように。お母さんは被写体である子供をよく知っている。テクニックやスタイル、素敵な写真を撮ることには興味はない。リストを作り終わったら、自問してみよう。被写体として視覚的であるか?もし明らかに写真撮影が無理ならば、それはやめたほうがいい。実践的な対象であるか?よく知っている被写体なのか?何も知らないものならリストから消したほうがいい。何か面白い被写体に出会うかもと出かけ、幸運に恵まれることもあるかもしれないが、難しい。

良い写真を撮るためには何枚もシャッターを切ること

これは連写をして後でベストショットを選ぶことを意味しているのではない。できれば構図を変えたり、違う瞬間を待ったりしながらあるシーンを何枚も撮るということだ。最高の瞬間を見極める事は大事だ。そのために最良の方法は、偉大な写真家を勉強し、本や映画、絵画などからインスピレーションを受けること。写真家は、どんな時も写真家であるということを忘れてはならない。デヴィッド・ハーンは、そのシーンの中心的要素に集中し、何枚もシャッターを切り、撮影位置やよいタイミングを選びながら、2つ3つ周りの要素も気にかけて撮ることを勧めている。すべての要素が理想的な構図で構成される瞬間がある。この瞬間を捉えるには運も必要かもしれないが、写真家はこの運をつかむための準備をしなければいけない。

ポジションといいタイミング

写真には2つの大事な要素がある(写真家が唯一決定できるもの)。それはシャッターを切る瞬間にいる場所とシャッターを切るタイミングだ。被写体が静止していて、対象物が少ない場合でも、距離やアングルを変えれば、まったく違う写真を撮ることができる。さらに、背景にも注意しよう。
どんなに良いシーンでも、背景がごちゃごちゃしていると、写真の良さが半減してしまうからだ。

写真家にとってカメラの次に大事なものは歩きやすい靴

写真家は沢山歩かなければならない。日に何時間も歩くのなら、履きやすい靴を買いなさい。

記:アレッサンドロ・メリーニ

写真展に向けて

もうあと数週間後に写真展が始まります。昨年同様大勢の皆さんにご観覧いただければ幸いです。
写真展に関してどんな印象を持っていますか?
写真展に参加するのは今年で3回目になりますが、納得の行く作品を出すことができるのかどうか毎回焦ります。気に入った写真が撮れたかどうかはさておき、クラブの皆さんと一緒に作品を選び展示を考えることはとても楽しいものです。皆さんベテランの方ばかりなのですべての作業がスムーズに行きます。展示初日の朝は共同作業で準備をしますが、私はこの時間が大好きです。この年齢になって学校の文化祭のような体験ができるなんて滅多にないことだからです。今年も昨年同様に多くの方に観にきていただければと願っています。
今年は撮影にでかける時間があまりなかったようですが、このテーマは難しく感じましたか?
未来に残したい情景。これがテーマですが、情という漢字が入ったことで私には難しく感じました。考えれば日常に素敵な心温まるシーンが転がっているので、それを切り取ることができればいいのですが、これがなかなか。。。
結局様々な場面で撮ることができるテーマを見つけるようになります。今年も「情景」という言葉で2年前のテーマとも共通しています。(心に残る情景)
実際、あまり被写体が限られるようなテーマになると難しいと思います。写真展とは別に特定のテーマを決めて撮ってみるのは面白いと思います。自分が興味がないものでも、撮らなければならないとなると勉強になるからです。
案内状になった写真にどんなエピソードがありますか? 
仕事で鎌倉に行ったのですが、早めに着いたためカメラを手に商店街を歩き始めました。あの時間はちょうど台風が過ぎ去ったばかりで、いい感じの夕陽が道に差してとても綺麗でした。すると突然の通り雨が降り始めたのであわてて傘をさしたところ、素敵なカップルが傘を開いて走り出す姿を目にしてあわててシャッターを切りました。その後すぐにシャッターが下りなくなりました。カメラにはSDカードが入ってなく、たまたま本体に装備してあるメモリーによって数枚シャッターを切ることができたというわけです。この話を先輩にしたところ、SDカードは出し入れすると壊れたりするので、データはケーブルでつなぎパソコンに入れたほうがよいとアドバイスを受けました。そのほうがSDカードの入れ忘れ防止にもなると。勉強になりました。
本体のメモリーがあったおかげでこの写真が撮れたとは運がよかったですね。
作品にはそれぞれにストーリーがあります。ぜひ写真展に足を運んでいただき、それを感じていただければと思います!

岩村田祇園祭り撮影会を終えて

7月16日、17日と岩村田のお祭り撮影旅行に行ってきた。この旅の楽しみは、まず栄写友の仲間と駅で待ち合わせをすることから始まる。
新幹線のホームへ上がり、並んでいるメンバーを探しながら自由席の列へ向かう。これが何とも言えなく嬉しいのだ。(小学校の遠足のような感じ!)車内では楽しいお喋りもつきず、あっという間に佐久平駅に到着。それにしてもなんて空気が新鮮なのだろう。夏らしい空は高く、吹き抜ける風はカラっとしていて心地よい。
遠くへ来たんだと実感が沸く。 さて、今回の撮影場所となる岩村田までは歩くことになるのだが、丁度お昼時なので腹ごしらえをする。駅前にあるチェーン店のレストランに入るが、洋食屋なので長野名物のおそばなどはメニューにない。「今長野に到着。お昼をファミレスで食べてる。」と妹にラインしてみる。すぐに返事が来た。「長野まで行ってチェーンのファミレス?」ごもっとも。1泊2日の短い旅だけれど、お祭り撮影が目的なのだけれど、食いしん坊の私としては地元の名物を食べずには帰れない。
岩村田は中山道と佐久甲州街道が交差する位置にあり、米殻の集積地として物資輸送上で大きな役割を果たしたという。
街を歩けば街道の歴史を感じさせる蔵や家屋があちらこちらにある。懐かしい佇まいの商店街もいい。
ここに面白い人物が通れば最高だな、などと考えながら歩く。さて、いよいよお祭りが始まり、子供神輿、大人神輿が通る。多くの人出で賑わってきた。
こうなると私の眼が泳いでしまう。神輿をかっこよく構図もばっちりで撮れればいい写真になるか?子供のいい表情をとらえることができるだろうか?
お祭りとは関係なくても、面白い一瞬を発見できるだろうか?こんなことを最初は考えていたが、クライマックスが近づくと、結局商店街の片側に立ち、水をかぶりながら練り歩く地元の人々に向けてシャッターを切り続けていた。まだ何も撮れていないと感じてしばらくその場にいたのだが、じっとしていると足の疲れがたまり、あきらめて近くの公園へ休みに行った。もっと早くここに来れば良かった。(泣)そこははっぴを着た子供や大人で賑わい、大いにはしゃいでいた。
皆本当に楽しそう!忘れていました。「お祭り自体を撮るより、その周りに眼を向けないといい写真は撮れないよ」という先生の言葉を。。。

こんな私でも数枚なんとか救える写真がありますように(祈)
写真を撮りに行くときは、買い物はしないほうがいい。荷物がどんどん重くなるし、カメラに集中できないからだ。でも、私は一人和菓子店に入り、杏子大福と地酒入りゼリーを買った。それがあまりに美味しくてびっくり。地元の名物といえば、夕食に出てきたお蕎麦も美味しかったし、お昼にいただいた鯉も最高だった。
今回の旅では、長野在住の栄写友の大先輩に大変お世話になりました。ありがとうございました!
「一期一会」人との出会いも大切、そして美味しいものとの出会いも!

記:広瀬 美穂

 

長年の論争

少し前に著名なスティーヴ・マッカリーの身に降りかかったことがきっかけで、昔からある写真加工についての論争が再燃している。
あるイタリア人写真家が写真展で一枚の作品が加工されていることに気が付いたことから全ては始まった。あの写真家がまさか、ということで写真界に激震が走ったのだ。実は、この作品以外にも何枚も修正写真があったのだが。今のところ彼は、自分の作品の一部はリポルタージュというより芸術作品に近いと言うにとどまっている。
しかし、作品をより良く見せるためにどこまでいじっていいのだろうか?そもそも、修整することは正しいのだろうか?
加工写真についての議論は昔からある。写真には絶対手を加えるべきではないという人もいれば、カメラによって作られるJPEGファイルが実際にカメラによってすでに修整されたイメージなのだという人もいる。また、ある程度の修整はありという人もいる。でもどの程度の修整なら可能なのだろうか?
このテーマについて、ナショナル・ジオグラフィックのディレクターが、写真家達に修整する前のオリジナル写真を送るように提言した。「フォトショップを通してではなく、皆さんの眼で見た世界を我々は見たいのです。」彼は修整を許さないと言っているわけではなく、実際に見たシーンに近く、より現実に近づけるためのほどほどの修整を勧めているのだ。やっていけないのは、写っているものを消したり、逆にないものを加えたりすること。
もしこんな風ににイメージを加工したいなら、それをするのは自由だが、別の分野に至ってしまうだろう。
その場合、「写真」とは呼べなくなるが。

記:アレッサンドロ・メリーニ

型を破ろう

© Saul Leiter

© Saul Leiter

今日写真を趣味として始めようとする人には色々な可能性がある。
写真クラブに入る、写真コースを受ける、インターネットで学ぶ、または独学でやってみる。独学で学ぶことはさておき、アマチュア写真家は、本や自分より経験豊富な仲間から学んだ基本を大前提とすることになる。おおよそこのルールに従うことは正しいのだが、時には型にはまらないことも必要だ。


例えば、三分割法に従うことは必ずしも必要ではない。
主役が写真のど真ん中にきても、端っこに一部しか写っていなくても成り立つ場合がある。偉大な写真家ソール・レイターはこのような作品を何枚も世に残した。

「写真に沢山のものが写りすぎている、視線があちらこちらに行って定まらない」とよく聞くことがある。つまり、主役が何か分からないということだ。それはそれで正しいのだが、このルールと真逆なのに素晴らしい沢山の作品がある。マグナムフォトの写真家アレックス・ウエッブは、写真の中に沢山の構成要素を入れ込んだ。一枚の写真の中で様々なことが起こり、私達の視線は右へ左へ、上へ下へと誘われる。

記:アレッサンドロ・メリーニ

© Alex Webb

© Alex Webb

© Vivian Maier

© Vivian Maier

よく考えると他にも沢山の決まり事がある。
主役がボケているのはダメ、というのは本当だろうか?

写真の水平線は斜めでもありだろうか?基本に従えば水平線は保つのが良いとされるが、カメラが傾いたままシャッターを切るとシーンがダイナミックになる。
早朝や夕暮れ時にシャッターを切るのは理想だが、真昼間に写した写真だって面白いこともある。
 

だからアドバイスはシンプルだ。写真の基本を学び、もし自分の創造性をより表現できるのならこのルールを破ること。

記:アレッサンドロ・メリーニ

こころの眼

最近、カルティエ・ブレッソンの「こころの眼」という本を買った。
この本は写真についてのマニュアル本ではなく、偉大な写真家である彼の哲学やその考えをまとめたものだ。ストリートフォトグラフィーを考える時、ブレッソンなしには語れない。彼の写真が伝えるものは「決定的瞬間」の探求と、ほぼ幾何学的とも言える完璧なイメージの構成。決定的瞬間を探し求めることは、ある場面でただ一枚の写真を撮ることではない。とりあえず連写して後で良い写真を選ぶことに彼が反対だったことは確かだが、興味深いシーンに出くわした時は何度もシャッターを切った。実際、ある場面における決定的瞬間というのは、いくつもの決定的瞬間によって成り立っていることもあるのだから。興味深いのは、ブレッソンはもともと絵画に興味があり、デッサンをする行為の延長として写真をとらえていたことだ。実際に、彼は30年もの写真家としてのキャリアを積んだ後、写真から身を引き絵を描いた。ブレッソンが、時代とともに撮影方法を変えた写真家達と一線を引く理由のひとつは、おそらく、50ミリレンズを積んだ彼のライカで白黒写真を撮るという彼らしい撮影方法に常に忠実だったことだろう。ある時、ブレッソンはこの繰り返しの行為に疲れてしまい、皆を驚かせながら写真を撮ることを辞めた。カメラを使わず、彼はこころの眼を使って写真を撮り始めた。

生きている世界の境界線

よくあるシチュエーション。顔の前でスマホを持って面白いイベントやシチュエーションを写したり、3次元的なコンサートやライブイベントを小さいスクリーンで見ながら録画する。これは意識的な判断で、瞬間の純粋さとライブ感を味わうよりもその瞬間を記録する。これはフォトグラファーならよく理解できる選択だ。

確かにフォトグラファーは生きている世界と写真を撮る世界の間の細い線を歩いてバランスを取っている。
私たちは撮る写真の中で写されている人たちのやっていることには積極的に参加しないし、受身の観客でもない。
私が良く知っている2つの世界の間にあるユニークで安心感がある場所。
自分がやりたいことをやるためにこの瞬間を生きるよりも「photographic moment」に集中して生きる必要がある。だから、ときにさみしい趣味となる。

これについて考えさせられたのは最近監督と主演のベン・スティラーが出ている映画「LIFE!」を観たから(ライフ、原題: The Secret Life of Walter Mitty)。この映画の中で、ファインダーを通さずに実際の瞬間を体験して、カメラを下に置くという考え方に対するシーンがある。ユキヒョウの写真を撮るために数時間待ったショーン・ペン演じるプロカメラマンが、ようやくフレームにユキヒョウが現れた時に、ベン・スティラーからの当然の質問が。。。

「いつシャッターを押すの?」

その質問に対してショーンの答えは「時には押さない。もしその一瞬が気に入ったら、カメラは邪魔に感じるから、その瞬間を生きたほうがいいと思う」

「本当に?写真撮らなかったの?」

それは心揺さぶられる感情だ。映画を見ている一般の人は、その場面を楽しんで観ることができるけれど、私はこのシーンを見て現実に戻ってしまった。全く現実的ではないと思って。フォトグラファーなら絶対にその大事な写真を撮っただろうから。まー、私はひねくれ者かもしれない。
撮影していない時だって人生のいい経験をすることができるけど、私は世界を目で見るよりも、カメラで瞬間を記録するのが好きなんだ。 毎回。
私のフォトグラフィーのキャリアの中では時々安全やプライバシーを守る等のためにカメラを下したことはある。ただし、目の前に素晴らしいシーンが現れると、上手く撮れないこともあるかもしれないがいつもシャッターを切ってみる。もし、カメラを持っていない時にそんな場面に出くわしたら私は顔をそむける。そして、その時々を楽しむためにカメラを下すことはない。(だから私はどこ行ってもいつもカメラを提げている)
フォトグラフィーは大きな傘のようだと感じている。ここでは一般的な話をしているのだが、多分フォトグラファーであるから、「今」を精一杯生きることとシャッターチャンスを逃がすことができない境界線に立っているのだと思う。
私は実際に人見知りで、世界の素敵な場所へ連れて行ってくれる相棒のカメラに毎日感謝している。未練はない。それが私だから。

Steve Simonのブログ記事「Missing The Moment And Capturing It At The Same Time」の意訳
http://www.thepassionatephotographer.com/opinion-missing-moment-capturing-time-no-regrets/